宇宙戦艦ヤマト2199・第7巻500の1

2013年10月17日

総括その1 『宇宙戦艦ヤマト2199』

◆はじめに…


1973年版『宇宙戦艦ヤマト』は先の大きな戦争体験が制作の中心スタッフに記憶として色濃く残っている部分が
作品の物語シナリオに注入されているのは確かで、
主役メカであり、タイトルの看板である『戦艦大和』もその時代の産物でもある事からゆるぎないストーリーラインである…。

結末においても地球を救うために旅立ったヤマトは終盤、ことごとく策略を突破してくるヤマトに対し 
ガミラス星の総統デスラーはわざとガミラスの技術で母国に強制的に引き寄せ、
本土決戦でヤマトを硫酸の海にヤマト沈める作戦をとる。

ガミラス艦隊から身を守るために イスカンダル星から技術提供をうけた『波動エンジン』にあらゆる能力を引き出して生まれた
『宇宙戦艦ヤマト』の力は 搭乗しているヤマトクルーの予想以上に大きく
結果、ガミラス星、人類そのものを滅ぼす力さえも生んで、相手側に狂気すらあたえる存在になってしまった結果による最終決戦で、
結果、冒頭 地球が赤い星となって滅亡寸前の世界が ガミラス星にも起きているという逆転の立場が描かれ、
ヤマトの方が『滅ぼしてしまった』という結末に主人公らが自らの行為に懺悔するという話になっている。

このようなストーリーラインの善悪の転換は実は西崎プロジューサーが手掛けた『海のトリトン』も同じであり、トリトン族とポセイドン族との抗争劇にもある。

あの戦争での敗戦国であり、「負けた者の罪と罰」を知っている日本人からこそ 善悪が明確になりやすい
アニメにも むなしさを感じていたのでないかと思えてならない節は多い…。

一方でイスカンダル星のスターシアの言葉からも このガミラスと地球との『生き延びようとする2つの力』の結末に薄々わかっていた様な節のセリフもあり、
その罪を癒す言葉もヤマトクルーに語るなど『生きていく いいわけ』もある答えのセリフもある…。

やはりこの1973年版『宇宙戦艦ヤマト』の作品はその時代に翻弄され生きのびてきた者達が作りだした物語だとわかるのだ…



…では2012年版『宇宙戦艦ヤマト(2199)』はどうだったのだろうか?


航海する目的と航路は同じであるために、テーマが変わっている事が分からずにストーリーが『1973年版』とは
違うアプローチで描かれていく流れに乗れていない 前作のファンが生まれてしまった点がある。

2199は『1973年版』の古代進が終盤、ガミラス星・都市の惨状に言葉にした「戦う事じゃなくお互いを愛し合う事だった…」という
セリフに対してのもう一つの方向性を描きたかったという 『if』を描いた作品であると
早々に気がつけばこの流れについていけたと思うのである。

 なにぶん経験と知識が長い月日で蓄積してしまっていると 人は脳内で一旦リセットして 
作品本来の映像見る配慮がなければ素直に楽しめなくなってしまう所がある…。 

『2199』ではガミラスとの戦いの前に地球人類同士の太陽系内の宇宙戦争が勃発している。
キャラクターの一人である山本玲(あきら)のセリフから19年前に 開拓星であった火星と地球との紛争の事
であり、火星軌道と木星軌道の中間に分布する小惑星帯を利用した火星側の攻撃に対し、地球は
地下シェルターを作って 火星側との戦いに勝利している。(※1)
その時代に翻弄されたのが沖田艦長と徳川機関長であり、生き証人である。

(※1・第2次・内惑星戦争・防衛艦36番に沖田艦長と徳川が乗船している)


しかしその戦争が終わってまもなく ガミラス星との戦争に突入していまう…おそらくは先の戦争で勝利に
溺れ、政府の正しい判断にくるいが生じていたという事であろう、
自らの太陽系も抜け出す力もない地球側に遥か銀河系をぬけ、大マゼラン星雲からやって来た 
ガミラス星の艦隊にまともに戦える力はなかった…。

7年
、地球はガミラスの侵攻にギリギリ耐えていたが、(※2)地球の大地は火星のようになり、人類滅亡へと泥沼の惨状になっている。
(※2・第1次火星沖海戦が2192年頃、 2次火星沖海戦は2198年前)

沖田艦長と徳川機関長の赤道祭の時にお互いが会話されたセリフには 過去と今の現状に対しての『罪』の意識が含まれた言葉であることから、
1973年版の「戦う事じゃなくお互いを愛し合う事だった…」という
「if」の方向に進むための道標として立つ 人物として設定されていると思われる…。

西崎P含む戦争体験者の思想を沖田艦長の立ち位置とし、アニメーションを製作した1973年版のスタッフを
真田や古代守、山崎らの中堅の立ち位置とした上で 2012年スタッフが一番心理的に理解できる立ち位置を
古代進や島達に置いたのであろう、この点が1973年版とは何処となく違うふいんきを生んでいると思うのだ。

昔の古典的なアニメーションでは 主人公は視聴者視点で世界観を理解しやすくなるための行動が多く
物語の中心テーマに登場しない話は無い。
1973年版の『宇宙戦艦ヤマト』においても例外ではなく、主人公・古代進がストーリーラインから途切れる
事は無い。
 だか、この演出では主人公の性格に破綻が生じることもしばしばで、宇宙戦艦の中核を担う役職にある
主人公の行動にも無理がありすぎる点がある・・・

2012年版ではこの方式から 『群像劇』に変えたことによって 古代進は一つの個になっている。
この構成の仕方が現代のアニメーションに多く取り入られており、全体のキャラクターに性格を
つけて動かす演出でもある。


そういった部分をふまえ、見る事によって 「オリジナル」と違うという短絡的な
否定的な感想だけじゃなく 2199の世界観、映像から感じられるものは多いのだ…

                                                          

                                                      



                                                            …つづく

総括Ⅰhttp://1239unnso.dreamlog.jp/archives/52308573.html
総括Ⅱhttp://1239unnso.dreamlog.jp/archives/52309315.html
考察Ⅲhttp://1239unnso.dreamlog.jp/archives/52312428.html


 


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この記事へのコメント

1. Posted by makoto   2013年10月19日 04:39
早よ!早よ続きを!!(*^O^*)
2. Posted by くじら軍曹   2013年10月19日 18:38
ごめんよ~文章構成能力が低いから 長文大変なのよ~笑。

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